国恩祭について

国恩祭は天保四年(1833年)にはじめられたと伝えられています。この天保の年間は大飢饉が全国で発生し、この播磨の地におきましても被害がひどく、大変人心が荒廃したといわれています。そこで旧加古・印南両郡の神職が中心に、新たな「まつり」を興すことによって、共同の意識を喚起し、再生の道を開き、世の安泰を祈る目的ではじめられました。そして再び平和がよみがえってからも、人々は大神様の御恩に感謝申し上げるために、毎年両郡でご奉仕役を一社定めて祭事を執り行なっています。

史料としては、残念なことに、明治十年代の国恩祭輪番表の一部はありますが、正式には明治二十三年以前の記録は欠落しています。同二十四年に規約が定められ、この年以降については『大例祭神官出席簿』が残されており、神社名と奉仕神官名を知ることが出来ます。また当時は「大例祭」と呼称し、一般には「太々」と呼んでいたらしいことが解っています。明治三十六年にこの規約は改正され、この時には「国恩祭」と明記しています。その翌年と翌々年は日露戦争のため中断しましたが、同三十九年には国恩祭として三日間斎行されています。

ただ、「国恩祭」という呼称は、当初からあった模様で弘化四年(1847年)姫路藩に差し出した願書には「…国恩祭御祈祷大神楽執行先規の通り加古・印南両郡の社家中衆会仕り…」と見えます。明治三十六年前後に作成されたと思われる『国恩祭趣旨』という文書があります。それを見ると、幕末から全国に澎湃として起こった尊皇思想を引き継いでいることが看取されます。

「我国神祇祭祀ノ道遠ク  神代二起り」から始まり、「正ニ汚隆アリ道ニ顕晦ナキヲ保セス妖雲  九重ノ天ヲ敝ヒ老賊奸其ノ毒ヲ肆ニシ」といった具合です。そして「皇室式微彝倫名分頽敗粉淆シテ邦ノ危機二測ルヘカラサルモノアラントス」だから神主が相議り「里閭ノ民ヲシテ敬神尊皇ノ大義卜国家無窮ノ恩頼トヲ了悟セシメント」天保四年に国恩祭をはじめたといわれています。この中に創始の年を明記しているのですが、当初の人々の思想は、そのまま語り継がれていたと見てよいようです。幕末頃の資料は残されていませんが、文化年間に姫路城主酒井忠実は、さきに仁寿山黌を建てた老臣河合寸翁の建議を採用して、子弟教育機関として学問所申義堂を高砂に設置しました。

今のコミュニティー広場がその跡で、教授に菅野真斎・菅野白華・三浦松右・小林梧陽・美濃部秀芳らがあり、頼山陽・河野鉄兜・大国隆正らも来講し、地域に相当な思想的影響を与えていたことが想像されます。また明石藩の儒官で、新井白石、祇園南海、秋山玉水ともに正徳四家と称され詩人である梁田蛻巌の儒学思想もあわせ背景として国学運動へと発展したのではないかと思われます。そして、それらの薫陶をうけた時の神職が寄り合い、智恵を集めて今に伝わる伝統の礎を築いたものと解せられます。

国恩祭の「国恩」は、自分を育んでくれたふるさと、つまり産土神の恵に対しておかえしをするという意味です。国恩祭は、つまり郷土の発展と人々の繁栄安泰を祈念し、目には見えぬ神恩に感謝の誠を捧げることを本義とするおまつりであります。昭和五十一年に至って、規約が全面的に見直され、そこでは「神恩に感謝し、国の隆昌・世界の共存共栄・氏子崇敬者の繁栄を祈るを以て目的とする。」と表現しています。