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「相生松」と「尉と姥」

尉姥祭について

古くから謡曲「高砂」の『高砂やこの浦船に帆をあげて…』のめでたき響きによって親しまれている高砂神社は、その昔、神功皇后の命によって創建され、素盞鳴尊とその妃奇稲田姫、その皇子大国主命の三神をご祭神として祀られています。縁結びの象徴として知られた“相生松”が、高砂神社境内に生い出でたのは神社が創建されてまもなくのことでした。その根は一つで雌雄の幹左右に分かれていたので、見る者、神木霊松などと称えていたところ、ある日、尉姥二神が現われ「我は今より神霊をこの木に宿し、世に夫婦の道を示さん」と告げられました。これより人は相生の霊松と呼び、この二神を“尉と姥”(おじいさんとおばあさん)として今日めでたい結婚式になくてはならないいわれになったと伝えられています。

尉姥祭のおこりは、天正年間、豊臣秀吉の三木討伐のどさくさにまぎれて、尉と姥の神像が行方不明になってしまいましたが、二百十七、八年ほどたった江戸時代の寛政七年(一七九五年)に、京都西御所内村の勝明寺という禅寺で、どうやら二神像があるという噂を、高砂の人が聞き込んできました。この寺では、寿命神といって、尊崇しているということでした。そこでさっそく、氏子代表の五十川氏と八木氏とが京都へ旅立ちました。寺僧に神像のいわれを話しましたが、檀家の人たちがうんといいません。それならばおみくじを作り、神様のお考えをお伺いし、神様の御心にお任せしましょうということになりました。このおみくじを引いたところ、再三のおみくじに「私は高砂の本社へ帰ろうと思う」と告げられ、村内の人々も皆、渇いた者が水を切望するように、二神を仰ぎ慕っていたので、間もなくご還座することが決定しました。

その年の五月二十一日、京都所司代の命により還座祭が執り行われました。このことは世間に広く知られ、恐れ多くも御所から帝と関白殿下、公卿百官までが皆ご拝礼され、ご神像が高砂へ帰る様子は大変な有様であったようです。それより毎年、相老殿において、お面かけ行事が、五月二十一日に行われるようになりました。また、『おまえ百までわしゃ九十九まで共に白髪の生えるまで』と謡われています。“尉と姥”は平和の力と技術を表し、また慈愛と健康長寿の象徴として、結納品にも使われています。現在、高砂では、地域の伝統文化の象徴ともなっています。尉の持つ熊手(九十九まで)は寿福の象徴でもある相生松の松葉を掻き集める道具として、縁起ものになくてはならないものであるし、姥の手にする箒(掃ハク=百)は、清浄にする意味と厄を祓いのける呪術的意味があり、厄を祓い福を招き寄せることを表し、夫婦和合長寿を祈っています。