高砂神社紹介

髙砂神社は、約1700年前に神功皇后が三韓より凱旋する途上で鹿子水門(かこのみなと)に停泊され、国家鎮護のため大己貴命をまつられたのがはじまりと伝えられています。その後、天禄年間(970~972)に疫病が流行した際、神託によりスサノヲノミコトとクシナダヒメを合わせてお祀りしたところ、疫病がおさまったといいます。以来、庶民のための神社として今日に至っています。

世阿弥の謡曲「高砂」に名高い境内の相生松は雌雄一体の珍しい松で、髙砂神社創建以来、夫婦和合、長寿繁栄を祈る尉姥として親しまれています。謡曲「高砂」は、結婚式などのおめでたい席には欠かせないものとなっています。私たちの結婚式は相生松のまえで行なわれた庶民の婚姻の礼からはじまったことから、髙砂神社は庶民の結婚式の発祥の地でもあります。

高砂神社の沿革

髙砂神社は素蓋嗚尊、奇稲田姫、大己貴命の三神を祭る。社伝によれば、神功皇后の朝鮮半島に出兵せられた時、大己貴命はわが軍の先鋒となって進まれ、三韓は臣従した。皇后が凱旋してこの鹿子水門に停泊なされた時、大己貴命は「われはここに停まり国土を守りたい」と告げられたので、神教にしたがって宮を建てて阿閇臣の祖瀬立大稲起命を祭主として斎き祀らしめた。その後、円融天皇の天禄年間(970-972)に疫病が大いに流行して、人々はこれになやまされたので国司が阿閇臣正敦に祈らしめると、その夜、神人と神女が正敦の夢に現われ、「われは速須佐雄、奇稲田姫である。わが児大己貴命とともにこの地に住まわんと思う」とお告げがあった。翌朝、この神託のとおり社頭の松に白木綿が現われ給うたので、諸人はこれを拝み奉って二神を併せ祀って相殿とした。これより疫病はおさまって平隠となり、祠官主計阿閇臣正敦の子孫が継いで社職を奉じた。その後、一条院のとき、正暦元年(990)九月十日に勅諚によって第二の王子を祭り添えられ、この時御厨庄を当社に寄附せられたという。

当社が髙砂午頭天王と呼ばれるのはこの素盞嗚命(別名・午頭天王)の故事に由来し、以来、阿閇臣正敦の子孫、小松家が祠職を奉じて今日に及ぶと伝えられ、社伝によると、室町時代に赤松家から神田十二町余を付け置かれた。豊臣秀吉は文禄の役に戦勝を祈ったと伝える。

慶長六年十一月二十一日、池田輝政は高砂天王社すなわち髙砂神社領として十石を検地帳面から引いて同社に寄進し、髙砂神社をその西北(農人町 稲荷髙砂社)の松林中に移転遷座した。

観音寺氏より新左衛門宛の下記小松文書

年不詳二月二十一日付の観音寺氏より新左衛門宛の下記小松文書がある。

「尚以御宮被為す引候は吉日御らんし珂被成候。何ともいまた御意無之候。先日之御意には、当月中より御とりかかり候はんと御意有之候つるか、此中は御さた候はす。いか様春中にては御座候はんと存候。かわる儀候は此方より可被申入候。態預使候宗順方へ之御状共披見申候。然は御宮地形十六日に相定申候。貴方之御屋敷も十六日に御わたし被成侯由目出存候。御宮被為引候事はいまた日限定不申候。定春中可為と存侯。五郎左衛門殿も御存有ましく侯。殿様次義に御待可有候。其方御家は御宮出来候てから御作り尤候。恐々謹言」

二月二十一日  観音寺(花押)

(包紙)新左衛門殿

御返事  観音寺

この書状は神社の地形のことが十六日にきまったこと、貴方すなわち神主小松新左衛門正次の屋敷も十六日に渡されること、御宮をお引きになることは日限はまだ定まってはいないが、定めし春中におこなわれるであろうと思う。その方の家は御宮ができてから作られるのが尤もである。お宮をお引きになる日は吉日を見なさい。遷宮について殿様からは何とも言われていない。先日の仰せにはこの月(二月)中から取りかかろうと言われたが、この頃は何ともお沙汰がない。どうせ春中であろうと思われるが、変更があればこちらから申入れるとあって、遷宮のことやまた次の文書(折紙)がある。

池田氏の寺社奉行観音寺から高砂の神主に態々宛てた文書

「髙砂社神主殿、     参 尚以尾上へは付不申候。尚々殿様へ御礼之御用立候ていろいろ可然候。是は我等之内儀にて候。 態申人侯。仍其地天王へ御神領高拾石分付申候間明日御出侯て御判形御請取可有候。為其申遣候事候。 恐々謹言 」

八月七日  観音寺(花押)

この文書は年不詳であるが、八月七日に池田氏の寺社奉行観音寺から髙砂の神主に態々宛てたものである。それによると、高砂の天王社、すなわち高砂神社にのみ神領高拾石分を付けるので、明八月八日に(城主の)御印形を請取りにくるようにというものである。また、 神主の住居に関することなどが内容である。 発信者の観音寺は池田氏の寺社奉行であったから、この文書は輝政が髙砂神社を移転するときのものと考えられる。 『池田家履歴略記』(巻之四)によると、慶長十七年壬子の条に、「造髙砂城、播州髙砂の城はいにしへ嘉吉年中松岡蔵人居住也しか段々廃しけるを国清公中村主殿に仰て今年城普請有て中村を目代とせられ、与力備百人附らる」とあって慶長十七年の築城となる。髙砂神社の遷座はそのためのものである。 この文書によると、遷宮は春中、すなわち三月末までの間に行なわれる予定である。

しかし、高砂神社の元文二年(1737)巳八月の「覚」によると、「池田三左衛門輝政公之御代慶長拾年社地乾方二御遷シ、則社之跡二屋形御取立御家臣中村主殿居住、真後池田武蔵守様御代御家臣日置豊前居住、其後元和八年右之屋形ヲ被崩、寛永二年本多美濃守忠政公又乾方之社ヲ旧跡今之社地二御再興御座候」

己上  元文二年己八月  高砂神主殿  小松能登守「池田三左衛門輝政公之御代慶長拾年社地乾方二御遷シ、則社之跡二屋形御取立御家臣中村主殿居住、真後池田武蔵守様御代御家臣日置豊前居住、其後元和八年右之屋形ヲ被崩、寛永二年本多美濃守忠政公又乾方之社ヲ旧跡今之社地二御再興御座候」とあって、これによると、高砂神社が遷宮したのは慶長十年であった。履歴書は慶長十七年とし、高砂神社の記録は慶長十年とし、七年の差がある。しかし、遷宮を命ぜられた高砂神社の記録の方が正確に近いであろう。一説には慶長六年とする伝承もあるが、少し早すぎるようである。

このように池田三左衛門輝政は関ケ原の軍功で姫路五十二万壱千参百石の領主として、慶長五年(1600)一〇月、三河の吉田から国替えし移ってきた。輝政は徳川家康の次女督姫(とくひめ)の婿である。慶長六年(1601)三月十一日から髙砂の町づくりをはじめ、加古川対岸の今津村の無職の住人に諸役免除の特典を与え、髙砂への移住を進め砂丘を平地とし、南北の河川を開塞し、京都伏見の河口にあった米倉を移し、百聞蔵をつくり初期河口港を築いた。つづいて輝政は、すでに文禄三年(1594)に開削されていた滝野-髙砂間の舟路を滝野上流である闘龍灘を開削し多可郡黒田庄まで阿江翁助に延長させている。

このことにより良質な酒米として有名な山田錦を灘五郷まで輸送する手段を確立し、干鰯などの肥料をまた加古川流域へ運び入れている。また木材の搬出にも貢献した。初期百間蔵は年貢米を納める蔵としてつくられるが、後に西国大名の年貢米を大坂の米相場にあわせ一時保管をする蔵としても大変賑い大商人が現れるようになった。このほか輝政は、天竺徳兵衛の父親・赤穂屋徳兵衛に塩田を開発させたり、尾﨑庄兵衛に髙砂染を考案させ、「おぼろ染」として庶民の衣料だけでなく広く諸藩の役人達に使用を促し、髙砂の名産となり、消費をのばし産業を興させた。本多美濃守忠政は元和三年(1617)七月十四日、新たに姫路十五万石の領主となった。忠政は徳川四天王の一人といわれた本多平八郎忠勝の長男で一国一城令にもとづき、すでに廃城となっていた髙砂城を女婿小笠原忠真の明石城に移して一掃し、髙砂社を旧社地に寛永二年九月、再建し、相生の松の後継樹や社領三十石を寄進した。

「為播州賀古郡髙砂天王社領拾石元和四年二致寄附候。為増進弐拾石合参拾石於髙砂令寄進訖。 全可有神納者也。仍如件」

寛永弐年九月十六日  藤原朝臣本多美濃守忠政  判  高砂天王社家中

本多忠政寄進の石燈籠には、次のように刻まれている

奉寄進  高砂宮石燈籠  寛永三戊寅季春吉辰

また鬼瓦には、  播州姫路住藤原法印中村長介  寛永弐年丑八月吉日  奉行  別所勝五良

また忠政は中須又右衛門、加藤隼人に命じて町づくりを振興させ、堀川などの築港を充実させ高瀬舟が町を行き来できるように市街地を堀でめぐらした。 例祭は記録に残るものとしては、円融天皇-天禄年間(970-972)に国内疾病が流行し、多くの民が亡なるもの算知れず、これを憂い、宮司家先祖の社司、阿閇正敦に祈祷させ、一夜にして神誨を得て、朝廷に奏し素盞嗚命、奇稲田姫命を合わせ祀る。その時『吾が速須佐雄、奇稲田姫也、今我児大己貴尊と同敷此地に住まんと欲す』とあり、その翌日、社頭に白木綿が天から現れ棚引き、人々これを神霊の御現れと拝み奉った。ここに疫病息み、人心大いに喜び、報賽の典を天禄三年(972)九月十一日に執行ったのがはじめとされ、一条天皇-正暦元年(990)九月十日の勅諚によって第二の王子を祀り添えたのが恒例となった。(明治よりは新暦に改められ、十月十一日が例祭、十日が神幸祭として斎行され、本年で1041年目の祭を厳粛に執行うこととなる。

その時の催馬楽に、「川岸の根白の柳あらわれて風に八重垣もそよふのふ」  「秋の田の刈りわけゆけば夕涼風に八重垣もそふよのふ」

古歌には、「神のます浦々ことに漕過ぎて、かけてそ祈る木綿崎の松」とある。またこのことにより、御厨庄の田を賜りて祭資にあて斎行している。

堀河天皇-寛治五年(1091)三月、雷火に遭いて社殿炎上ずるが、その後、高倉天皇-治承二年(1178)六月高師経に勅して造営される。また高倉上皇-治承四年(1180)三月には厳島行幸の途、髙砂に泊し参拝している。このことは、源通親の記した『髙倉院厳島御幸記』に 明石の浦な過ぐるにも、なにがしの苦しほたれけんも思ひいでらる。申の時に高砂の泊りに着かせ給ふ。四方の舟ども碇下ろしつつ、満々に着きたり。御舟のあし深くて湊へかかりしかば、端舟三艘を縄みて御輿かき据えて上達部ばかりにて御舟に奉りし。聞きも習わぬ波の音、いつしかおどろおどろしく、浦人の声も耳に留まりたり。これよりぞ、国々へ召されたる使など返しつかわざる。たよりにつけて、宮こなる人におとずれける。 」と細かく記載され、その様子が伺い知れる。また後醍醐天皇-元弘二年(1332)に高砂の松を見られた記事があるなど、御舟を迎える様は、今も十月十日に行われている神幸祭舟渡御に受け継がれている。

現行における「まつり」の形態を築いたのは、赤松圓心が領主として神田を献じ、延元元年(1336)七月社殿を修復し、それより赤松家より代々神田十二町余をいただき、例祭に奉幣使を遣わし祭りが行われていた。その後池田参議輝政が慶長六年(1601)高砂港の再築港のおり、当地の北高浜にあった梶原氏が築いた旧髙砂城は地利が悪いとのことで、髙砂社の社地が最適とされ、神社を乾(北西)に約500米遷座させたことにあわせ、十二月二十二日検地分高一〇石を引いて社領を寄進し、月次の祭禮を勤め、現在の境内地に高砂城を築いた。その子池田武蔵守輝貞(利隆)によって、祭礼諸方の沙汰を司る重き役人を遣わすが後に地方の名族、二見屋次兵衛などの沙汰人と称するものにこれを命じ任せることとなる。その後、元和三年(1617)姫路城主となられた本多美濃守忠政卿によって、秀忠が慶長二十年(1615)に発令した一国一城令を以て髙砂城を破棄したことに合わせ、崇敬殊に深くし、寛永二年(1625)三月より宮地を古殿地に復し本殿末社舞殿四囲を築き、石灯篭などを寄付、その年九月十一日御鎮座の日に当って、旧殿より新殿に遷宮し、九月十六日には先の十石に合わせ二〇石を社納あわせ社領三〇石となった。その時に際しては忠政公、同御室妙香院、忠利公、同室天樹院(千姫)併せ甲斐守政朝公、能登守忠義公、千世姫、吉姫、参詣し給い、神馬を奉り、社中を美粧し神事並びに猿楽及び相撲、弥晋治(流鏑馬)があり終日賑わったとある。これは往古に聞きし「まつり」の遺風を再現したとあることから、ほぼこの寛永年間の二十一年間に祭礼が整ったと解される。またこれを裏付けるものとして文化年間(1804~1818)三谷松圃氏選の『髙砂雑誌』には「元和・寛永の頃、最大に繁昌せしなり(中略)大小軒を連ねて四千余屋、売買の道広く、川より海より運び来る貨物、日に万船を交易す」といわれるように漁村、泊地そして嘉吉時代の(1441~1443)髙砂城の城下町の性格から交易都市として急速に経済発展したことが挙げられる。

祭礼の次第はこの時期に中興されるが、申楽(猿楽・散楽)が復活しなかったことを憂える一文に「往古より弥普治の後五番の能あり。是御領主御代々より奉納ある所、尤ふるく豊臣太閤此国しろし召されし時、治国平天下の為諸社に奉幣あり。殊に当社を崇め玉ひ孔雀太夫に命ぜられ行ふ之。然るに先格廃して中興以来は翁の面掛而巳にて添惜しむべし惜しむべし。」とある。このころ祭礼は豊凶に拘わらず行われる例式の吉瑞とされ、町々より年に応じて俄太鼓を出して神をいさ奉り人を賑わし、一年の歓楽ここに止まると云われていた。

「俄太鼓の多寡は年浪に寄るか故に定式の列に加えず。実に此の神事堂々然と又灼熱たり。吾晴間(播磨)の国におきては似るべしもあらず、愉快の大祭礼、皇都の祇園祭亦葵祭、江府の山王祭、八幡放生祭等の四五祭を除いては余に並ひもあるべからざる、此の祭祀也。実に昌平の余沢にして生平の楽事不過之。」とまで称賛されている。」

また、『播磨名所巡覧図絵』の略文には、「神輿の御船守出て供奉の楽船其外数艘の篝船、万千の提灯に月星の光を奪う、数竿の旗標は水波に映じ錦綺布て爛々として是当国の奇観也、見るべし見るべし云々。 祭礼の当日小児輩高提灯を持って前共者白和幣の者五人曠なる伊達衣を着し、三十六人の仕丁、未明々々染の襦袢、白木綿の襷を背にむすぶ。 千歳樂万歳樂の囃子は雅楽の銘にして音楽を奏するに疑す。次第に遷幸成り、薄暮離宮に入御この時祭式あり。いと古風なる物也。 夜半を期として還幸を促す。永楽橋の下手にて船に御し奉り川下に渡御なして下の洲先にて陸上奉り、十一日早暁本宮に還幸成らせ給う。 この川神事の賑々然たる言語に絶すありさま也。南浜町川中の衛士、火籠の篝(中興廃す)米売買大小の商人干鰯青物等の売人より奉納の柴灯は除上船に焚き、町々の迎え提灯、松明、その数限りも無く、目もまばゆく、甚大の火にして月光を奪い白昼を欺く、大善世界の見物事也。 前後両日の祭祀、市中一統内外の失費千金に充つと云々。 と記されている。祭礼の次第としては、まず町々の若輩の者より兼而神祠へ申入当年の籤を曳む故を託し置、八月朔日を以て是を定む。其儀尤厳然たり。御殿の前にして、大年寄、月番年寄、列を正し、町々のもの壱人宛出て、既に祠官宣文を上げ神楽を奏し、各神酒を拝し終り、後に彼神籤を取る。当りし一町瑞喜雀躍して再神楽を奏し神酒を拝し、然して神前を退く。祭礼の当日小児輩髙提灯を持て前供者白和幣の者五人曠なる伊達衣を着し、三十六人の仕丁、未明々々染の襦衣白木綿の襷を背にて結ぶ。千歳楽万歳楽の囃子は雅楽の銘にして音楽を奏するに擬す。次第に町々を暫時息い給ふ。永楽橋にて神輿三艘に編みし御船に御し奉り、神輿川を上りて渡御、薄暮大崎の離宮に入御、此時祭式あり。いと古風なるもの也。夜半を期して還幸、舟に御し奉り川下に渡御なして洲先の廣前にて陸上奉り、十一日上暁本宮に還御ならせ給ふ。此の川、事の賑々然たる言語に絶すありさま也 」とある。

現在は昭和三十五年に中断されてより、夜神事等は復活されてないが、舟渡御は大阪天神祭の原形とも云われる伝統行事として永く後世に伝えようと昭和六十年より復活し、往古の祭礼の厳かな一面を残している。

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